
この度、栃木県レスリング協会のホームページがインターネットに公開されることになり、レスリング協会の誕生から隆盛期を迎えるまでについて紹介させていただきます。
<栃木県レスリング協会の誕生>
本県のレスリングは、1952年ヘルシンキ五輪にバンタム級日本代表として参加し、金メダルを獲得した石井庄八選手を足利市に招いて柳原小学校校庭で模範試合を行ったことを契機にクラブ結成の動きが活発になり、同年に栃木県立足利工業高校(以降足利工高と記述)川村末吉教諭を顧問に同好会が誕生したことに始まります。
この模範試合を計画したのは後に県レスリング協会の初代会長に就いた内田元四郎氏でした。その後、足工高の初代顧問を務めた川村末吉教諭は昭和29年に郷里の岩手県宮古市に帰郷してしまい、このレスリング部の顧問を引き継いだのが熱血漢の塊である小林逸郎教諭でした。
内田元四郎会長と小林逸郎理事長の体制が築かれると、レスリングの普及発展に日夜情熱を注がれました。その成果は、昭和29年北海道国体に出場した佐々木恭一選手(足利工高)が58㎏級でわが県に初の優勝をもたらすことで発揮されました。また、昭和38年にはインターハイにおいて田部井 康選手(足利工高)が55㎏級で県勢初の優勝に輝き、このことが弾みになりレスリング競技が足利市に定着していきました。
<隆盛期を築く>
足利工高から日本大学に進み、昭和38年月見ヶ丘高校(現足利大学附属高校)に赴任した大島大和教諭に引き継がれたレスリング精神は更に進化を遂げて、自身が指導する足利工業大学附属高校が、昭和52年・53年度にインターハイ2連覇を果たした。また、個人でもアジア大会において谷津嘉章、山本 博のゴールドメダリストコンビや五輪選手の谷津嘉章、宮内輝和選手、ユニバシアード大会48㎏級優勝の石川利明、世界ジュニア選手権大会52㎏級優勝の丸山末吉と国際大会で大活躍した選手を多数輩出しました。特に昭和55年に開催された「栃の葉国体」では完全優勝を果たし長年の強化策が実を結び、栃木レスリングの隆盛期を築き上げると共に日本レスリング協会にも大きく貢献してきました。
<今後の課題>
以前は学校の関係者中心で協会運営及び選手強化を図ってきましたが、ここ十数年間、県内高校のレスリング指導者が多数退職し、指導者不足は顕著な状況です。この解決策が喫緊の課題でもあります。中学校部活動の地域移行も過渡期であり今後の課題も多くある中、県内の各地域に根付いたレスリングクラブの保護者や関係機関の協力を得ながら、将来を見据えた新たなチーム栃木レスリングを作っていくことも大きな課題と感じています。
このホームページの作成が再び隆盛を迎える本県レスリングの起爆剤になることを期待しています。
栃木県レスリング協会 会長 小野寺孝之